| 住吉神社例大祭 (資料) |
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本祭り |
3年に一度、住吉神社が開かれた旧暦6月29日の「例大祭日」に近い日曜日をはさむ三日間と、前夜の宵宮が行われます。住吉神社周辺では、高さ18mにおよぶ五反幟がそびえ立ち、神輿に御霊が入れられ、佃・月島・勝どき・豊海・晴海に八角本社神輿と町内神輿・山車が巡行します。 |
| 勝どき四丁目の「御旅所」に、宮出しされた獅子頭と八角本社神輿が渡御し、神輿は町内巡行後、境内に奉安され一夜を過ごします。 |
| 住吉神社例大祭は、古く天保年間(1830〜1844)に刊行された『江戸名所図会』や『東都歳時記』に、「人々群集す」や「神輿を海中に舁入奉る」など祭礼の様子が残されています。 |
| また、『東京年中行事』(明治44年・1911)には、本社神輿が海中渡御し、仮屋(御旅所)で仮泊など、現在の「本祭り」を思わせる記述があるが、7月26日大津浪があり予定の多くが中止されています。 「本祭り」が定期的に行われるようになったのは戦後で、戦前は不定期だったということです。 |
| 御旅所 |
明治34年(1901)「二号地」(現在の勝どき1〜4丁目)のほぼ中央、現・勝どき二丁目11番に現地有志により建立されました。 関東大震災、昭和5年(1930)、同所・東京市所有地285坪(約940u)に本田・渡廊・拝殿を再建、同10年に神輿庫を増築。 正面左右に石柱、鳥居は石造神明造「二号地氏子中献納=大正八年」の刻銘、石造狛犬がありました。 |
| 御旅所は、昭和59年(1984)、勝どき四丁目に移転し、跡地の一部に神輿庫を再築しましたが、当時若者たちが移転と跡地利用を惜しんだ。 境内は広く樹木が茂り、御旅所は故郷「二号地」の「鎮守の杜」であり、祭や日常生活とともにあった。 以下は、そのときの訴えの一部。 |
| 「幾多の歳月を経て今日ある住吉神社の祭礼の音はいつまでもその耳に残り、祭のにぎやかさは、その瞳に焼きつき、又、担いだ神輿、引いた山車の重みはその肩に腕にのこっております。」 |
| 宵宮祭 |
祭礼の前夜夕刻に、勝どきの御旅所に睦会が集合。 参拝後薄暮の中、「高張」を灯し、「長着」(揃衣)の列が佃の住吉神社へ向かいます。 住吉神社では、灯明の灯りのみ、宵闇深まる拝殿前で「本祭り」の安全と成功を祈願し、住吉神社奉賛会、佃住吉講、連合睦会の手打式が行われます。 光と闇の儀式です。 |
| 連合渡御 |
宮出しされた獅子頭を先頭に、勢揃いした各部町内神輿が本社(住吉神社)から佃住吉講の獅子頭につづき御旅所に向かい都御します。 |
| 「本祭り」の第一日朝、清澄通り勝どき三丁目のお仮屋前から、連合睦、各睦会の「高張」を先頭に、二号地大神輿に続き、中・小神輿が勢揃いを先陣を切るります。 順路中、水しぶきの中で、晴海、四乃部、三乃部、二乃部、一乃部、新佃の町内神輿が準じ順次合流し、佃小橋を渡り佃に勢揃いします。 ここで、連合渡御に向けて待機します。 |
| 本社では、獅子頭を佃住吉講若衆が練りまわし、しばらくして、隊列を整えて御旅所に向かう渡御がはじまります。 |
| 連合渡御は、西仲通で最高潮に達し、御旅所で再び勢揃いをし、手締め式が行われます。 |
| 八角本社神輿 |
天保9年(1838)に奉安、芝大通り・万屋利兵兵衛作であり、区民有形文化財に登録されています。 八角形の神輿で、天皇即位・朝賀の玉座「高御座」を模したともいわれ、大正天皇ご即位の奉祝行事では、皇居二重橋まで参向しました。 |
| 「本祭り」第二日、本社神輿は御旅所に渡御し、その後、勝どき豊海町内巡行した後、御旅所で一夜を過ごします。 佃住吉神社から、御旅所までの渡御は佃住吉講が行います。 事前には、道路に散水し、担ぎ手の手や足元に水がかけられます。 神輿警護の「高張」や「弓張」への水掛は禁止、神輿への水掛も住吉講では、禁止されています。 |
| 御旅所渡御に先立ち、早朝、船渡御があります。 神輿を御座舟に安置し、佃から隅田川を下り勝どき橋をくぐり、豊海町の先、朝潮運河をへて佃に戻ります。 |
| 二号地大神輿 |
白木の「大神輿」であり、昭和10年(1935)浅子週慶の作です。 祭礼を控え、睦会「二号地月睦」は一連の準備に着手します。 祭りの前日、神輿はお仮屋に安置され、御霊入れが行われます。 祭礼期間中、神輿や山車の巡行は睦会「黒半纏」が統括指揮、夜を徹しての警護を行います。 祭礼前の「綱締め」などばかりでなく、日常的に神輿や山車の維持管理や、祭礼に伴う町会・睦会の活動は、重ねて引き継がれてきた「二号地」の歴史的な文化であり、伝統でもあります。 |
| ※ 担ぎ手は、「二号地月睦」の町内半纏着用しなければなりません。 |
中・小神輿 山車 |
中・小神輿は、子ども神輿です。 山車の巡行は親御さんなどの付き添いが可能です。 水を掛けられますので、支障のない服装でご参加ください。 |
| 二号地 |
現在の勝どき一〜四丁目。 明治以後、東京奥湾部二番目の埋立地です。 明治27年(1987)に出来た「人工島」で、国家近代化が議論され、港湾整備、航路確保の浚渫土砂で築島されました。 「一号地」は現在の月島。 「三号地」は勝どき五・六丁目で大正2年に完成。 豊海町は昭和37年(1962)に造成されました。 |
| お仮屋 |
祭礼期間中、神輿を奉安する場所です。 町内神輿・山車はお仮屋前を出発、町内を一巡してお仮屋前に戻り、「手締め」が行われます。 隣接して、神酒所、町会詰所、睦会詰所なども設営されます。 神輿・山車巡行図の掲示などがあり、町内祭礼の拠点です。 清澄通りの勝どき三町目の歩道に設営されます。 |
| 住吉神社 |
佃住吉神社は、いまから約360年前、正保3年(1646)旧暦6月29日、表筒之男命、中筒之男命、底筒之男命の住吉三神を祭祀し、神功皇后と東照大権現・徳川家康の御霊二座を配祀し開基されたということです。 |
| 拝祭の地「佃島」は隅田川河口の潮の干満で見え隠れする寄州でした。 この一つ(一部)を大阪・佃村と大和田村から移住した漁師たちが幕府から拝領し、正保元年(1644)築立て普請築島し、故郷を偲んで佃島とよびました。 1679年の「江戸方角安見図鑑」には、ほぼ現在の佃島一丁目1〜9番に相当すると思われる部分が描かれ、その一画に「すミ吉大明神」と記されています。 大阪住吉区の住吉大社が総本社です。 住吉三神は海洋神、航海神、和歌などの神である天照大神の兄神であるとされています。 |
| 佃島漁師については、徳川家康の江戸入場とともに移住したとの記述もあり、それにともなって住吉神社の分身霊が拝載され、奉還祭祀されたとも伝えられています。 また、漁師たちは、「江戸前」で漁業に携わり、鮮魚などを幕府に納入、許可を得て日本橋小田原町(河岸)で商い、日本橋魚河岸の起源となったともいわれている。 「魚河岸」は関東大震災後、隅田川河岸・築地に移転し、世界の生鮮食材が集まる集荷・流通拠点「東京中央卸売市場築地市場」となりました。 |
| 明治に入り、石川島・佃島を拠点として、広大な「月島埋立地」が形成されました。 月島埋立地は維新政府の近代化政策、富国強兵殖産興業を推し進める造船・鉄鋼を軸とした一大工業地帯になりました。 住吉神社は、そこに存在する唯一の古い神社として氏子の範囲をその全域に広げるようになりました。 |
| 周辺を水に囲まれた特殊な地形、また水運流通も合わせた産業立地に恵まれ、そこには職住近接・都心居住の共同性にとんだ地域社会が形成されました。 その地域社会は、世代を重ね更新を繰り返し、いまなお息づき。「本祭り」をはじめさまざまな地域活動の源泉となっております。 |